可能というだけでなく、避けられない事

From 14 June 2010 StemCells&AtomBombs: 

Not only possible, but inevitable



私たちが原子爆弾を考えるとき、アメリカやその科学的発明に全ての責任があると責めがちですが、ここで忘れてはならないのは、戦争勝利国3カ国の政府やその他多くの国の科学者がチームとなって原子爆弾を実現させた事です。

カナダもその貴重なウラニウムの堆積物の為にその研究に参加しました。また戦火のイギリスの為に、カナダに移って研究を続けた多くのイギリス人研究者を迎え入れました。当時、イギリス人研究者もまた原子爆弾実現に向けて研究しており、1940年開かれたMAUD委員会では、爆弾開発に必要なウラニウムの絶対量を検討していました。アメリカやカナダは、ナチスドイツに対抗するべく核爆弾実現に絶対的な協力をしていました。

ジェイムス・チャドウィックという名を聞いて、原子爆弾を思いつく人はあまりいないと思います。彼の名は、1932年の中性子発見でノーベル物理学賞を受賞した1935年から知られるようになりました。中学生の科学の授業で習ったかと思いますが、原子はプロトン、電子と中性子から成り立ちます。1932年まで、中性子は一般に知られていませんでした。原子が引き裂かれる13年前は、ほとんどの科学者が、現在の12,13歳の子供達よりも原子の知識がありませんでした。

MAUDコミッティの一員として、ジャック チャドウィックはウラニウムの研究の勤しんでいました。1940年12月、彼はいくつかの研究結果を得た結論として、彼は以下のように結びました。「原子爆弾は可能というだけでなく、避けられない事です。それ以来、私は睡眠薬が必要になりました。それが唯一の眠る方法だったのです」

それから5年もしないうちに、広島と長崎の殺戮がチャドウィックの恐ろしい予言を現実の物としてしまいました。

この予言は、私が幹細胞リサーチをしている間に見た、もう一つのある事を思い出させました。

「世界中の脳外科医が合意している事として、損傷した脊髄を治癒する事自体が問題ではなく、いつ治癒するかというのが問題となっている事です。」

たった57ヶ月後で、チャドウィックの予言が現実になったという経緯を読んだ後、損傷した脊髄の治癒についての先述が、いつ述べられたか私は急いで調べました。これは確かではありませんが、記録として残っている中で、最初の記述は幹細胞と脊髄負傷へのリサーチを推進している、クリストファー&ダナ リーブ財団からでした。この記述がなされたのは48ヶ月前です。

私が理解する範囲では、これから先9ヶ月後に「今日から世界は、幹細胞治癒において、驚異的な力を見ることになるでしょう」と、言える段階では残念ながらありません。

Translator: Kawazu Kazuyo

0 件のコメント:

コメントを投稿